15
エルは自分の思いをすべて言葉にできる術をまだ持たない。
いや、囚われの身であった10年の月日がエルからその術を奪った。
シュラは何も変わらない。変わったのは自分だ。
エルはその拒否された手のひらを見つめる。
失うことを知ったあの日は、エルにその悲しみを教えた。
その悲しみは、今はもはや恐怖でしかない。
戸惑い、気詰まり、シュラが大切だと思うその気持ちは何も変わらないのに、エルはいつものシュラの瞳が自分を責めているように見え、そんな感情を抱く。
ナキアスの家は、所属する村からは少しはなれたところにあり、普段からあまり人付き合いもしていないためここを訪れるものはめったにいなかった。
エルは村のほうへ行くことも許されずここにきてからも、ナキアス以外の人を見たことはない。
周りは林に囲まれており、寒そうに身を縮めた木々がざわざわと音を立てている。
許された家の周りを、エルは一歩一歩落ち葉を踏みしめ歩く。
乾いた葉の音がしんとした林間に響く。
日は徐々に傾き始めている。オレンジ色に染まった影が薄く延びている。
沈んだ心は木々には隠しようもなく心配そうに声をかけてくる。
動物や植物たち、──人間以外のものは言語を持たない。
この何年も、そうやって心を合わせてきた。
植物たちに言葉は必要ない、自分の気持ちを感じ取りそしてまた伝えてくる。
だけど、どうしてか人間の気持ちだけはエルには感じ取れない。そして思っていて伝わらない。
分からないものは怖い。それが大切であればあるほど。
ほうっと白い息を吐く。
今になって言語がとても大切なのだとエルは気づく。
だけど、まだシュラに何を伝えていいかわからない。
ナキアスの鍛冶はまだ終わりそうにはなかった。金属を薄く延ばし何層にも何層にも重ねてはまた延ばしていく。
エルは終わらなければいいと思う。
剣ができなければ、ここを発たなくてもいい。
だけどそれでは何も変わらないことをエルは痛いほどに知っている。
シュラがどこかで生きていてくれればいいと思っていた。
どこかで幸せになっていてくれればいいと思っていた。
一緒にいれなくても城から逃げ出せればいいと思っていた。
でもシュラと一緒にいたくなった。
自分の望みは際限をしらない。
どこまでもどこまでも高くなっていく。
木々の隙間からオレンジの光が線のように降ってくる。
みんな優しい、エルを包むすべてのものが優しい。
エルが何をしなくても、何も返さなくてもその優しさは変わることはない。
その優しさはエルの10年を支えてきた。だけど今になってそれは、途方もなくエルをちっぽけなものにしてしまう。
ローブの裾を風が、するりと抜けていく。
答えはあなたの中にしかないのに。
年若いなぎの木がエルに言う。
なのにどうして迷っているの?
どうしてだろう。なぜだろう。
言葉にしないのは、失うのが怖いから?
大丈夫。あの子はとても優しい子だから。
なぎの木はシュラをあの子と呼ぶ。
知っている。シュラが優しいことはエルが誰よりも知っている。
エルが望むことはいつも叶えてくれる。
だから怖い。エルの行く先は、危険に満ちているのにシュラはなんでもないようにきっとエルを守ってくれる。
例え自分が傷つこうとも。それが怖い。
そういえばいいのよ。きっと分かってくれる。
なぎの木は嬉しそうにさわさわと葉を揺らす。
「エル?」
「兄様・・。」
白いフードをすっぽりとかぶったシュラが、そのフードを取り除きながら歩み寄ってくる。
「また長く外にいたな。」
シュラはエルの手を握り、その温度を測る。
「お出かけ?」
「ああ。」
「寒い?」
シュラのマントについたフードを手に取り、問いかける。
顔をすっぽり隠してしまうほどの、フードはあまりにも外出着にはあまりにも不似合いだった。
シュラはふと考え、そうだな。というとエルの手を離し林を通り過ぎていく。
なぎの木はまたため息をつく。
エルは鉄を打つナキアスにふとフードの疑問を、尋ねるとナキアスは、笑いながら答える。作業場は熱気に包まれている。
エルは鉄を鍛えるその音が好きだった。
「そりゃ、シュラディーンは王の側室を誘拐したお尋ね者だからさ。あいつは優秀な兵でもあったし。顔をだして公には歩けんよ。」
ナキアスは大声で笑う。
「捕まったら・・。」
「まぁ。殺されるだろうね。」
手を休め、汗だらけの顔で振り向く。
エルの心を読んだようにまたナキアスは笑い出す。
「そんな顔せんでも大丈夫だ。すぐ帰ってくるよ。」
お前らはまったく。ナキアスは呟く。
先ほどシュラがうるさいほど、エルを遠くに行かせない様にと念を押して出て行ったことを思い出す。
「そんなに心配なのに離れて、一人でいくのかい?」
ナキアスの問いにどきりと心臓がはねる。
「だけど、私といたらあぶないし。」
「あいつといたって同じさ。」
「ここにいたら安全でしょう?死んでしまったらもう会えないけど、生きてさえいればまた会えるもの。」
どうかな?ナキアスは剣を鍛えていた道具をごとりと床へおく。
剥き出しの地面が砂埃を巻き上げる。
「何もせずに後悔するより、精一杯やってみてダメだった時もう一回考えてみたほうが後悔は少ないと思うが?このご時勢、次に会えるのを望むのも結構難しい。さぁ。明日にも剣はできあがるぞ。」
ナキアスは不意に立ち上がり、さぁさぁととエルを部屋のほうへ追いやる。
「兄様。お帰りなさい。」
もう辺りは暗闇に包まれている中うっすらと白い影が近づく。
その姿が、現れる前からエルはシュラだということが分かる。
寄りかかっていた木が、シュラの帰宅を教えていてくれたから。
「エル?また・・。」
あきれたように、シュラがまたエルに手を伸ばす。
エルの頬に同じ温度の冷たい手が当たる。
「兄様。私。」
もどかしい感情の渦が、まとまりを持たずまたぐるぐると廻る。
言葉にしたい一言はひとつしかないのに。伝えようと決心したのに。
頬にあたったシュラの手をエルはそっと触れる。
「兄様。」
このまま伝わったらいいのにとエルは思う。私のこの気持ちすべてが、この瞬間にすべて伝わればいいのにと。
「エル?」
「もしチェリンドーザに行って、もしこの力の意味が解って・・もしもその使命の終わりが来るのなら・・・。」
すべて仮定の話でしかない。
それも爪の先ほどの可能性の。
「もしも、何もかも終わったなら。」
「ああ。」
シュラが優しい瞳で見つめ返す。
「兄様の傍に帰ってきていい?」
シュラは頬に当てた手とは反対の手でエルの長い髪を指で梳く。
「それまでは私が傍にいてはいやか?」
「いやよ。」
優しくシュラの手がエルの頭を髪の毛を撫でる。
「兄様が危険な目にあうのも、傷ついてしまうのも、いやだもの。だから。」
だから、一緒にはいたくない。いたいけれども、いたくない。
エルは泣きたくなる。
最近自分は泣いてばかりだと思う。シュラにみんなに守られて弱くなってしまった。
きゅっとがまんすると鼻の奥が痛くなる。
泣いてはいけない。強くならなくては。
「絶対に、私は死なない。」
約束する。
シュラの大きな胸が顔に押し付けられる。
両腕がエルの頭を抱く。
温かい懐かしいにおいがエルの中に流れ込む。
「だから一緒に行こう。」
エルはこらえきれず嗚咽を漏らす。
その胸の中でエルも約束する。
絶対にシュラを守ると。
この命に代えても、絶対に。




